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フェンシングの町で培った技術を世界で 長野出身・西藤俊哉が描く五輪での夢(2) まとめ 未来に輝け! ニッポンのアスリートたち

2020年東京五輪そして世界に向けて、それぞれの地元から羽ばたくアスリートを紹介する連載企画「未来に輝け!ニッポンのアスリートたち」。第10回は長野県出身、フェンシングの西藤俊哉(20歳、法政大)を紹介する。

父はジュニアクラブを創設

16年4月の世界ジュニアで日本勢団体初優勝を飾った(左から)敷根、西藤、松山【スポーツナビ】

 西藤の存在を知ったのは14年だった。4月の世界ジュニア(ブルガリア・プロヴディフ)で銅メダルを獲得し、同年10月のジュニアW杯バンコク大会で優勝したからだ。

 その後は男子フルーレがリオデジャネイロ五輪の団体戦出場権を取れるかどうかに関心が向いてジュニアへの意識は薄くなっていたが、16年4月の世界ジュニアで果たした団体戦日本初優勝のメンバーの中に西藤がいた。ただその時は17年の世界選手権で3位になった敷根崇裕(法政大)が個人戦で優勝し、松山恭助(早稲田大)が3位で彼は3〜4番手という状況だった。

 その存在を知った時、最初に感じたのは「長野県でフェンシングが?」という疑問だった。太田雄貴の登場で注目されるようになったフェンシングだが、現実的にはマイナー競技。長野県でも普及しているとは思ってもいなかった。だが西藤は「長野県出身でナショナルチームに入っている先輩も結構いるし、99年と03年の日本選手権エペで優勝した三澤高志さんも長野県出身で、そういう人たちが帰って来た時に教えてくれたりして、僕たちが出るようになってきたんです」と説明する。

 その拠点になっているのが、西藤が育った箕輪町だ。

 78年のやまびこ国体のフェンシング会場が箕輪町になったのが契機となり、隣接する伊那市も含めて中学や高校にフェンシング部ができ始め、その後にジュニアクラブも創設された。今ではエペのカデやジュニアの全国大会や、14歳以下のフルーレの全国大会も開催され、学校給食用に考案された"フェンシング丼"は、今では町の新しい名物になっているほどの、フェンシングのメッカのひとつになっている。

 そのジュニアクラブの創設者が西藤の父・繁さんだった。

 中学から競技を始めた繁さんは純粋にフェンシングが好きで、高校卒業後は家業の精密部品工場で働きながら競技を続けて国体にも出場していた。それでクラブを作ったが、西藤がいた頃は少し遠くから週末だけ練習をしに来る子も含めて40〜50名くらいが在籍していた。

「父は足を使うことを重視していてフットワークに対して時間を割くので、回りからも『長野県の選手はフットワークがいいね』と褒めてもらっていました。僕自身のフェンシングもフットワークがベースになっていて最大の武器でもあると思うから、小さい頃からそういう練習をしていたのが生きていると思います。ナショナルチームに入って先輩も3〜4人いたし、僕も三澤さんにコーチをしてもらっていたので『長野県でやっているから全国で勝てない』という気持ちは一切ありませんでした」(2018年2月28日掲載記事)

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